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横浜市営バスあれこれ
路線・運用編第2弾
戦前のバス路線・2
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 市営バスがその後発達した地域は鶴見地区です。昭和6年に生麦〜滝坂〜末吉橋(どういう経路だったかは不明です)を運行開始し、その後鶴見駅〜安善町線(現在の27系統)などを運行しました。
 鶴見地区は戦時中に一時的に生麦から鶴見駅間を市電が走ったことがあったのですが、終戦、米軍の接収により生麦〜鶴見間は廃止となり、市電の運行とは縁の薄い地域でした。そんなわけで、鶴見地区の市営バスは戦前から発達してきたのです。

 さて、一端は市営で開通したこの鶴見地区ですが、昭和7年に路線許可を得た生麦〜横浜駅間はバスの運行を京浜電気鉄道(現在の京浜急行の横浜以北)に委託して営業を開始しました(なお、この時市電は既に生麦までの路線が出来ていました)。路線の運営は全て京浜電鉄が行い、乗車料収入の5%を横浜市が受けるという契約だったそうです。そして実際には品川から生麦間を走っていた京浜電鉄のバスが横浜駅まで乗り入れるというものだったそうです。何故このような形態でバスが運行されたのかは詳しい資料が残っていないそうなのではっきりしていません。後日横浜市は京浜電鉄側に変換を迫ったそうですが、結局の所終戦までこういう形態のバス運行を行っていたそうです。

 ページ1および上記でにあげた系統の中には現在もほぼ当時と同じルートで走っている路線がありましたが、この他にも戦前から(戦争によるブランクはのぞく)走っていて、現在でも当時とほぼ同じルートで運行されている路線にはこのような路線があります。

起点 経由地 終点 現行
弘明寺   磯子 9系統
  杉田 10系統
保土ヶ谷橋 洪福寺、横浜駅 豆口 20系統
新子安 宝町 生麦 19系統
大口   子安 24系統
生麦 明神前 大黒町岸壁 17系統
上記は路線の開業順です。

 保土ヶ谷橋〜豆口線というのは現在の20系統に当たりますが、これは現在の20系統の路線とは一部区間で経路が違っています。ちなみに、豆口というのは現在の根岸線山手駅周辺の地名です。そして山手駅開業から既に30年以上経過した現在でも20系統につけられている路線名は開業当時の名を取って豆口線となっています。

 ちょっと話が脱線しましたがこの豆口線、現在は山手駅を出ると大和町1丁目まではせまい裏通りを走り、一度本牧通りを本牧方向に走ります。上野町バス停を経て、2つ先の信号で左折し、妙香寺前。そして通称『ビヤザケ通り』を上り、北方小学校前、さらに坂を登り港の見える丘公園。そして谷戸坂を下り、元町入口(旧称:谷戸坂下)に出て、山下町、県庁方向に進みます。で、開業当初ですが、現在で言うと左折する信号が1つ手前になり、妙香寺の真横を通り元街小学校の脇を右折、トンネルをくぐり代官坂を降り、元町商店街に出ます。現在では一方通行で左折は出来ないのですが、そこを左折し、喜久屋洋菓子店の所を右折。さらには中華街の中を通って現在の加賀町警察署の付近を通り桜木町駅方面に進んでいたようです。このページの作者はこの付近に住んでいて、その辺りの道路状況もそこそこ知っていますが今ではとてもバスが通れるところではありません。昔の小型のバスだからこそ走れる道だったといえるでしょう。

 ちなみに、北方小学校の脇の通りを『ビヤザケ通り』と書いていますが、これは現在の北方小学校周辺に明治初期、日本で最初のビール工場が出来、その通りを用いてビールを輸送していたことから通りにこの名前が付いています。ビール輸送には市電も使われ、市電の線路が上野町〜千代崎町間で分岐し、現在の20系統の経路に当たる区間を走っていたそうです。なお、工場は関東大震災で崩れ、生麦に移転しました。

 市営バスの当初の車庫は浅間町のみでしたが、後に鶴見にも車庫が出来ました。この浅間町営業所は戦争で唯一焼失した営業所でした。


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