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横浜市内にはじめてバスというものが走り出したのは大正4年だそうです。これは箱根の富士屋ホテルが始めたもので、箱根の富士屋ホテルから横浜のホテル・ニューグランドまでの146.8キロを走るものでした。我が国のバスの歴史からは少々時間が経っていますが、我が国初の長距離バスと言うことになります。
その後、大正8年に鶴屋商会が戸塚~厚木間で営業を開始し、次いで大正10年には相武自動車が大岡町に創立され、弘明寺から久良岐郡大岡村、本郷町から鎌倉町、弘明寺から久良岐郡日下村の3路線で営業を開始しました。この会社が神奈川中央交通の前身になります。やがて、相武自動車は金沢自動車運輸が営業を行っていた滝頭町から杉田町などの路線も併合し、さらには日下村から屏風ヶ浦村杉田間と、南吉田町~お三の宮~引越(現在の六つ川3丁目付近)~戸塚旭町に至る路線も開業しました。神奈中バスの横43系統(横浜駅東口~井土ヶ谷~戸塚駅東口)は神奈中バスのルーツとなる路線の一つのようです。このようにして相武自動車は営業範囲を拡大していきました。この他にも湘南自動車、戸塚自動車、中央相武自動車などが相次いで創立されました。いずれも市営バス開業前の話です。
現在市営バスが走らない区があったり、市内の料金体制が均一料金に統一されていないのはこういった経緯があるからだと考えられます。
さて、横浜市営バスが開業したのは昭和3年11月10日です。近代史の歴史年表を見ると、この日は京都御所において昭和天皇の即位の礼が行われた日となっています。この日、営業を開始した市営バスですが、開業当初はこういう路線体制で運転されていたそうです。
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神奈川駅は現在の京急の神奈川駅の近くにあった東海道線の駅です。井土ヶ谷線は前記の相武自動車の路線を含めて現在の神奈中バスの横43系統の一部と考えていいようですが、宮本町1丁目で鎌倉街道を右折、首都高速の花の木インター出口の前道路を通り、Y校(横浜商業高校)の脇に出てきて左折し、井土ヶ谷に向かっていたようです。
保土ヶ谷線と小港線は事実上1つの路線だったようです(最初から一つの路線だったのか、後に統合されたのかは同じ文献でも記述が異なる箇所があり、判定できません)。保土ヶ谷橋は現在の保土ヶ谷橋とは違うようで、保土ヶ谷駅の西口側にあったようです。そこから洪福寺、浅間町を経て平沼町にいたり、旧横浜駅(高島町)から桜木町駅。ここまでが保土ヶ谷線で、以降は小港線として桟橋(大桟橋)、見晴橋、小港橋を経て小港、本牧に至っていたようです。現在の路線とすれば8、25、26、101系統の折衷と言うところでしょうか(もっとも、浅間町から西平沼橋の区間は微妙に違うようですが)。
根岸線は廃止となった旧55系統とほぼ同じルートの路線でした(本町4丁目で右折でなく、開港記念会館のところで右折していたようです)。亀の橋から地蔵坂を登り、山元町へ。そこから根岸の競馬場の脇を通って不動坂を下り、滝の下(不動下)に至っていたようです。根岸の競馬開催日には大幅に増発されたそうです。
間門線は現在の58、99系統にあたる路線です。ここの磯子は現在の磯子警察署のあたりだそうです。そこから海沿いをまっすぐ間門まで行っていたようです。
日野線は今の2系統にあたりますね。弘明寺から鎌倉街道を日野まで行っていたようです。ちなみに京浜急行電鉄の前身の一つである湘南電鐵が黄金町~浦賀間を開業させたのが昭和5年の4月1日です。従って上大岡駅もそこにはありませんでした。
三ツ沢線は現在の35/50系統と114系統を足したような路線です。ガーデン下というバス停が開業当時からあり、その次が終点の三ツ沢だったようですから、三ツ沢は現在の三ツ沢下町駅付近にあったのではないかと推測します。
こうして7路線、実質は6つの系統で開業したようです。車庫は浅間町におかれました。当時の浅間町車庫は路面電車の車庫があり、そこに間借りする形でバスの車庫を設けたようです。そして全路線を担当しました。ちなみに、この浅間町車庫は路面電車の車庫を始め、後にはトロリーバスの車庫も置かれるなど、いろいろな変遷を経て現在に至っている営業所です。
市営バスの運賃は距離による区間制で1区7銭、2区14銭、3区21銭というものでした。
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Presented by 古屋俊和(Toshikazu Furuya) E-mail: tfuruya@bc.mbn.or.jp (なお、@は半角文字にしてお送り下さい) Last Update 04/26/2010 13:48:59 |