3系統

3系統に関する思い出話などをいくつか書き出していきたいと思います。


 3系統は横浜駅西口・新横浜駅前から市が尾駅を結ぶ路線でした。東急バスとの乗り入れ路線で、太平洋戦争後間もない頃から運行されていた路線でした。横浜市営バスの路線移譲計画で東急バスに移譲され、東急バスでは横浜駅西口〜又口橋間を廃止にしたため、現在では新横浜駅前から市が尾駅という路線になりました。横浜駅西口から市が尾駅方面へはこの他に第三京浜を走る95系統がありましたが、こちらも時をほぼ同じくして廃止となり、現在では横浜駅西口から市が尾駅方面に乗り換え無しで行けるバスはなくなってしまいました。


  1. 横浜駅西口の第2バス乗り場

     3系統は私が初めて乗りに行った頃は横浜駅西口の第2バス乗り場の一番前の乗り場から発車していました。この乗り場は95系統と同じ乗り場でしたが、何故か相互乗り入れしていた東急バスは1つ後ろの乗り場から発車していました。
    更にその後ろに39系統と96系統の乗り場がありました。

     1980年代前半、横浜駅西口第2バス乗り場には接近表示器が設置されていました。接近表示機は第一弾は本牧通りのバス停に設置されましたが、第二弾はターミナルでの接近表示機の試行をするためか、この第2バス乗り場で行っていたようです。第2バス乗り場から出るバスは全て接近表示に対応していたため、横浜市営バス(緑、川和、浅間町、野庭)だけでなく東急バス(新羽)、神奈中バス(舞岡)、相鉄バス(旭)にも接近表示用の車載送信機が設置されていました。
     
    車載送信機を取り付けていた神奈中バス
    お28(舞岡)
    車載送信機を取り付けていた神奈中バス
    屋根上一番手前のベンチレーターの脇にうっすらと写っているのがアンテナです
     
  2. 浅間町営業所担当

     1990年から港北ニュータウン営業所が出来る1991年頃まで、浅間町営業所が3系統を担当していた時期がありました。1990年の夏、たまたま横浜駅西口に行った際、浅間町営業所にいた標準尺のスケルトンバス(5-3772号車)を見て、びっくりした覚えがあります。その時カメラを持っていなかったので写真に撮影できなかったのが未だに悔やまれてなりません。その後、市が尾駅でもう一度1983年度車(初代スケルトンバス)で他車乗車中にすれ違ったことがありましたが、結局はそれきりでした。

     浅間町営業所の車両の方向幕は37系統の次が20系統で、以降26系統、36系統などと続いていますが、1990年度車は当初37系統の次に3系統の方向幕が入っていました。当時の幕順表を見て確認しただけですが、「川和町」や「新横浜駅」もあった記憶があります。

     なお、浅間町営業所担当は東急バスへの移譲直前にも港北ニュータウン営業所の規模縮小の影響からかLED表示車両限定で数運用担当があったそうです。

  3. 本数が少なかった新横浜駅行

     今では後を引き継いだ東急バスが市が尾駅〜新横浜駅という路線になってしまい、横浜駅西口には行かなくなってしまいました。新横浜駅発着便は昭和40年代には路線設定があったようですが、管理人の記憶としてあるのは昭和60年代前半に川和町〜新横浜駅という子系統として設定されたものが初めてでした。この子系統は運行本数が朝夕のみと非常に少なく、川和町〜新横浜駅間時代は乗ることが出来ませんでした。管理人が3系統として新横浜駅〜又口橋を乗ったのはこのサイトを開設して以降のことです。
     
  4. 川和高校行

     管理人は東横線に乗って通学していました。電車が東白楽駅に入る直前、下の道路を3系統の川和高校行が走っていました。この川和高校行は時期によっては横浜駅西口発の設定がなく、東神奈川駅西口発のみの運行という時期もあった記憶があります。また、高校への路線のため長期休暇中は川和町止まりになるなど、乗るのに苦労した路線の一つでした。それでも何とか乗ることが出来ました。

     横浜駅西口を出た段階ではそんなに乗客はありませんでしたが、徐々に学生が増えて終点の川和高校前到着時には超満員になっていました。

     現在は73系統の一バス停になってしまいましたが、かつては現在の川和高校前のバス停から少し行ったところ(現在は住宅になりました)に折り返し場がありました。

     路線バスも3系統、73系統の他89系統の循環線や川和高校行、301系統の出入り便他東急バスには綱島駅から川和高校前という路線の設定もありました。川和高校周辺については別途他の系統で紹介していきます。