1-2.21系統から43系統
  (昭和28年度末:昭和29年3月31日現在の乗合自動車運轉系統表より)

系統
番号
起点 途中経由地 終点 担当
営業所
21 磯子 八幡橋、不動下、根岸台、山元町、長者町1丁目、花園橋、日本大通、本町4丁目 桜木町駅 浅間町営業所
21系統
解説
 現在の21系統とさほど変わらないように思われますが、実は先代の22系統(桜木町駅〜市電保存館)のルートとほぼ同じルートとなっています。昭和25年7月に運行を開始しました。山元町1丁目から柏葉、麦田の電車車庫脇に出るルートとなったのは昭和30年から31年の間(つまり、資料欠落時期)のようです。なお、根岸台は現在の根岸台とは異なり、現在の山元町4丁目あたりのようです。そして後に22系統、55系統が出来ますが、22系統は下の区間が先代の22系統とは異なる(つまり、これから紹介する22系統は先々代に当たります)ことからおわかりのように、昭和36年9月に運行開始となっています(ちなみに、55系統は同年3月の運行開始)。ちなみに、この当時は区間的に運休ということが多かったようで、このバスも何回か運休になっています。理由は道路の舗装工事のためだとか。時代を物語っていますね。
22 横浜駅前 浅間下、洪福寺、和田町、梅の木、鴨居小学校前、中山駅 川和 浅間町営業所
22系統
解説
 昭和29年の系統表を見ているといろいろと驚かされてしまうのですが、これもその一つです。横浜駅から川和に向かう路線がもう一つあったと言うことになります。昭和25年8月に運行開始となりました。さて、区間を見ていただくとおわかりかと思いますが、つい最近まで朝夕などに走っていた1系統の洪福寺経由の便と似たようなルートになっています。実際、和田町の先から中山駅までは同じルートです。この22系統はこの後の資料空白期の間に中山駅〜和田町間に短縮されました。1系統も同様に和田町に終点が変更になりました。そして昭和36年5月にこの2系統を一つにまとめて出来たのが現在の1系統になります。ちなみに昭和36年5月、新しい1系統の運行本数は9本だったそうです。
23 元石川町 荏田、上市ヶ尾、川和、中山駅前、長津田駅前、神前橋 奈良町 浅間町営業所
23系統
解説
 こちらも驚きですね。昭和25年10月に運行を開始しています。元石川町というのは現在のたまプラーザ駅からあざみ野駅の間にあるバス停で、現在も33系統が走っています。そこから荏田、川和、中山駅を通り、さらに長津田から奈良町まで行っていたのです。距離にして19.76キロメートル。まぁ、現在でも中山駅〜奈良北団地は1時間近くかかりますから、そこからさらにたまプラーザの方まで走っていたということで1時間30分はかかっていたのではないでしょうか。その後、元石川町〜中山駅間は33系統となり(ちなみに、33系統は以下で紹介しますがこの時点で既にあった系統です)、23系統は中山駅〜奈良町の運行となりました。なお、この当時は長津田駅周辺の運行状況が多少異なっており、長津田駅から現在と同じく一端戻って長津田町、片町、下恩田、恩田に出るルートと長津田駅から現在のJRを踏切か何かでまたぎ、田奈中学校前から恩田へ出るルートの2つがあったようです。なお、現在の若葉台へ行く便が出来るのはこの後25年以上先の話になります。
24 生麦 入江橋、大口駅東口、菊名橋、六角橋、平川町、市役所前 横浜駅西口 鶴見営業所
24系統
解説
 現在の24系統とさほど変わらない路線ですが、六角橋から反町にかけてのルートが異なっています。昭和25年11月、生麦〜菊名橋間で運行を開始しました。六角橋を出たバスは現在の白楽公園入口近くの交差点を右折し、神奈川工業高校の裏手を通り、平川町に出ます。その隣町の広台太田町(この辺に昔東横線に太田町駅という名の駅がありました。現在でも駅の跡があるところです)。で東横線をまたぎ、現在の神奈川区総合庁舎の所の交差点で国道1号線をまたぎ、二ツ谷町の神奈川スケートリンクのあるところに出てくるものでした。市役所が当時現在の反町公園にあったのと同様、市議会の議場もそのあたりにあったようで、市会議場前というバス停が(現在の神奈川区総合庁舎前あたりに)あったようです。なお、この頃神奈川区役所は現在の洲崎神社前付近にあったそうです。24系統はこの後昭和34年4月に現在のルートとなり、一時は生麦から先鶴見駅まで運行されていたこともあったようです。
25 保土ヶ谷駅表口 桜ヶ丘、野球場前、星川駅前、天王町 洪福寺 浅間町営業所
25系統
解説
 保土ヶ谷駅表口とは現在の西口になります。昭和26年2月、保土ヶ谷駅表口〜星川間として運行を開始しました。保土ヶ谷駅から星川駅あたりまでの基本的なルートは現在とあまり変わっていないようです。そして星川駅の先ですが、ここが当時とはちょっと違っていて、現在の横浜ビジネスパーク付近で左折し、帷子川を渡り、天王町サティのかどで右折(左折すると保土ヶ谷車庫)し、その先天王町で左折して、洪福寺まで至っていたようです。路線の方は昭和29年9月に横浜駅西口まで延長され、また保土ヶ谷側では一度昭和32年8月に保土ヶ谷駅東口に終点が変更され(桜ヶ丘の先の月見台交差点を左折し、帷子町2丁目に出て、保土ヶ谷橋、保土ヶ谷駅東口に出ていたようです)、再度昭和33年9月に保土ヶ谷駅表口行きも併設されるなどの曲折があったようです。星川駅〜天王町間のルートが現在のものになったのはその昭和33年9月です。
26 六浦橋 金沢八景、町屋、君が崎、金沢中学校前 白山道 浅間町営業所
26系統
解説
 この路線を見てピンと来た方は恐らく京浜急行バスに造詣が深い方ではないでしょうか。京浜急行バスでもこれまた結構マニアックな路線である文5系統などが現在のこの区間の路線になります。昭和26年4月、横浜市の手によってこの区間は運行を開始しました。当時は六浦橋から白山道という往復路線だったようですが、昭和32年12月に白山道から六浦橋まで延長され、町屋を起点とした循環線となりました。昭和34年3月に市営バスは撤退し、その後を京浜急行バスが引き継ぐことになりました。現在でも当時とは多少ルートが異なるようですが、バスは走っています。現在の26系統(横浜駅〜横浜港シンボルタワーなど)は同年10月に運行を開始した2代目となります。当時は横浜駅、桜木町駅からの大桟橋、市庁前循環線でした。
27 鶴見駅前 鶴見警察署前、東汐田、朝日町1丁目 安善町 鶴見営業所
27系統
解説
 現在とさほど変わらないような路線ですが、鶴見駅を出た後で右折、汐見橋を渡り、橋を渡ったところで15系統と別れ、おしゃもじ稲荷前、八軒町、東潮田、大東町を走っていました。大東町は現在も27系統が路線としている区間です(当時は一方通行ではなかった模様)。このおしゃもじ稲荷前、八軒町というのがどういうルートだったのかは一応地図と照らし合わせていますが、ちょっと不明瞭です。そして大東町の交差点を通り、朝日町1丁目から寛政に出て、安善町まで走っていました。昭和33年7月に汐鶴橋を渡るルートに変更となり、潮田町2丁目などのバス停が出来ています。また、その頃起点が鶴見駅西口に変更にもなっています。また、昭和37年10月には終点が安善町よりも先、安善町岸壁までとなりました(こちらは昭和46年5月に廃止になっています)。鶴見側はその後上末吉、一の瀬まで路線が延びましたが、現在では再び鶴見駅発着となりました。
28 保土ヶ谷 大門通、天王町、藤棚、戸部、野毛町、伊勢佐木町、本町4丁目 桟橋 浅間町営業所
28系統
解説
 この系統は現在に至るまで路線変更の大変多かった系統なのでここではそう詳しく書きませんが、この当時の特徴としては保土ヶ谷(保土ヶ谷町2丁目)から八幡橋を経て保土ヶ谷橋、大門通と来て天王町から西横浜駅を通り何と東海道線をまたいで水道道に至っていたのです。水道道から藤棚、西前町(かつて山下ふ頭方面行きのみが走っていた藤棚の商店街の所ですね)、御所山から戸部1丁目、野毛坂に出ていました。野毛坂から先は野毛町、都橋、伊勢佐木町、馬車道、太田町、本町4丁目というルートになっています。恐らく野毛坂の先、野毛山方面に行くための交差点を左折し、坂を下り、野毛3丁目の交差点に出て、そこを直進し、都橋から吉田町の所に出ていた(吉田橋を渡り、右に行くと桜川橋を経て桜木町駅に行く道路と野毛方面に行くルートが交番を挟んで分岐するので、そのうちで野毛の方に行くルートを走っていたと思われます)ようで、さらに吉田橋を渡って(現在、一方通行路なので今では考えられませんが)馬車道を通り、県立博物館の所から本町5丁目の交差点に出てきたと考えられます。そこから日本大通(県庁前)まで来て左折、現在140系統の大 桟橋方向から来るバスが通るシルクセンター前の道路を通って桟橋(大桟橋)まで行っていたようです。路線はその後元町橋、蒔田野入口(平和台)、芹ヶ谷へと延長となりました。芹ヶ谷延長は昭和41年12月で、当時は保土ヶ谷の車両も芹ヶ谷まで行っていたようです。
29 長者町5丁目 長者町1丁目、花園橋、日本大通、本町4丁目、桜木町駅前、横浜駅前、青木通、入江町、宮の下 鶴見駅西口 鶴見営業所
29系統
解説
 昭和26年5月に運行を開始した路線で、現在の29系統と鶴見駅周辺(終点が西口になっていますが)から横浜駅までの区間は基本的にルートは変わっていません。なお、この当時は横浜駅よりも先があって、桜木町駅から日本大通(県庁前)を経て、長者町5丁目(花園橋の先、長者町1丁目で右折して長者町5丁目に至る)まで行っていました。当時は長者町5丁目に操車場があったそうです。この系統の他にもう先に紹介した1系統ともう一つ、この下で説明する系統がこの当時長者町5丁目まで乗り入れていました。長者町、伊勢佐木町はこの当時の横浜の中心街で、他でも書いていますが昭和20年代後半には多くのバスがここまで来ていました。その後昭和39年3月には浦舟町まで路線が延長されました。昭和40年6月に終点を鶴見駅(東口)に変更しました。そしてその1月後、今度は一日8本とはいえ何と浦舟町からさらに先、路線は滝頭まで延長されました。つまり、滝頭〜鶴見駅間という路線となったのです。しかし、さすがに長すぎた(17.75キロメートル)のか、翌年11月には県庁前までに短縮され、その後昭和45年の青木橋掛け替え工事により、横 浜駅西口発着となったのです。横浜そごう&新しいバスターミナルが出来て現在の路線となりました。
30 横浜駅前 桜木町駅前、本町4丁目、尾上町、阪東橋、吉野町3丁目、弘明寺、上大岡、吉原、日切地蔵前 平戸 浅間町営業所
30系統
解説
 私個人の思い出として、30系統が県庁前〜芹ヶ谷という路線だったことはよく覚えており、また実際に芹ヶ谷から県庁の近くまで乗ったこともありました。この当時は横浜駅から平戸までの路線だったようです。ちなみに、芹ヶ谷の折返場は無論のこと、この時点で現在の芹ヶ谷には市営バスの路線がありませんでした。平戸で折り返していたようですが、いったいどこら辺で折返しをしていたのかが気になります。もっとも、あのあたりには現在もコカコーラの工場や相鉄系の車両修理工場があるので、そのあたりで折返しを行っていたのかもしれません。路線が芹ヶ谷まで延びたのは昭和38年12月です。横浜駅の始発が県庁前になったのは昭和51年9月の地下鉄横浜〜上永谷間の開通時です。ちなみに昭和39年度末時点で、芹ヶ谷から横浜駅へは市営バスで4つの系統が走っていたことになります。30系統と77系統、82系統、そしてもう一つ52系統(現在の52系統とは異なります)の4つで、それぞれ経由地が異なっていました。
31 二ツ谷町 東神奈川駅西口、大口仲町、六角橋、神奈川大学前 横浜駅西口 鶴見営業所
31系統
解説
 神奈川大学前というのが何とも奇妙ですね。昭和26年9月、市役所(二ツ谷町)からのバスとして運行を開始しました。今の循環線ルートとは逆回り(もっとも、この当時は往路復路があったようですが)で東神奈川駅を通り、七島町から七島不動尊を経て大口仲町に出ていたようです(大口駅は通っていませんでした)。白幡周辺の区間も現在とは異なっており、大口仲町から先、まっすぐ行き、白幡仲町、白幡向町と来たバスはそのまま直進し(現在の31系統は白楽から急坂を上り、さらに降りたところ(白幡向町)で右折します)、白幡踏切で東横線を渡り、白楽の駅前を通り、現在の六角橋商店街を通り六角橋に出てきていました。そして今度は現在の66系統の逆回りルートを通り、反町から横浜駅西口に至るルートを走っていたようです。昭和32年度までに横浜駅西口からの循環線となっています。66系統との分離が行われたのが昭和37年7月です。その後も六角橋経由は割に遅くまで走っており、昭和59年度に変更が行われたようになっています(ちょっと自分の記憶と一致しないので、出来れば後日調査したいと思っています)。ちなみに昭和34年頃は一日6 0本以上運行されていたそうです。
32 横浜駅前 戸部、野毛山動物園前、野毛町 桜木町駅前 浅間町営業所
32系統
解説
 昭和27年2月に運行を開始した路線です。この当時は横浜駅を出て、戸部5丁目(ここまでが実はちょっとよくわからないところです)から野毛坂、そして野毛山動物園に一度立ち寄った後で野毛町から桜木町駅へ行くといういわゆる「行楽の足」的な路線でした。その後、昭和32年6月に保土ヶ谷駅東口〜久保山〜一本松小学校〜桜木町駅という路線で再発足しました。何故に一本松小学校が経由地かと言いますと、何とこの時このバスは久保山(現在の久保山霊堂)を出ると次の交差点を曲がらずに、直進して走っていたのです。三春台を経て霞橋を渡り、そして一本松小学校を通って野毛山動物園、野毛坂、日ノ出町、長者町5丁目、羽衣町、尾上町、横浜公園前(現在の市庁前)、本町1丁目から桜木町駅に至っていました。その後、昭和36年6月に1日2本が保土ヶ谷駅東口から横浜駅まで延長されましたが、昭和38年12月に久保山〜一本松小学校間の道路狭隘による車両制限令に抵触することから路線が変更になり、浅間町車庫前〜桜木町駅間の32系統と、桜木町駅から市庁前、野毛坂経由で一本松小学校まで行く54系統とに分割されました。しかし、その後昭和 42年にこの2つが再度一つになり、44年頃に保土ヶ谷車庫起点となり平成10年の路線改変までその形態で走りました。
33 横浜駅前 青木通、東神奈川駅西口、六角橋、小机、川和、上市ヶ尾、荏田 元石川町 浅間町営業所
33系統
解説
 これも驚きですね。今で言うところの14系統と104系統の関係のように、この系統は当時の3系統の子系統のような感じで走っていました。横浜駅から川和までは3系統と同じルートとなっています。そして、その先は先に紹介した22系統と同様のルートで元石川町まで走っていました。その後昭和32年までに中山駅〜元石川町間の路線となりました。田園都市線は昭和41年に溝の口〜長津田間が開通していますが、このバスがたまプラーザ駅まで行くようになったのは昭和48年4月のことです。
34 横浜駅西口 鶴屋町3丁目、翠嵐高等学校前、三ツ沢総合グラウンド入口 三ツ沢 浅間町営業所
34系統
解説
 昭和27年4月に運行を開始した路線です。ここでいう三ツ沢は三ツ沢上町駅と三ツ沢小学校の間にあったバス停のようです。当時は現在のような循環線ではなく、三ツ沢への往復運転だったようです。と、いうことで現在の規格の車両ではおよそすれ違うことの出来ないような所を往復運転で走っていたのです。その後横浜駅から栗田谷方面を経て沢渡方面に出て横浜駅西口に行く循環線(正確には東口発西口行きなので循環かどうか微妙なところですが)となりました。昭和38年7月に現在の体制の循環線となって今に至ります。
35 横浜駅前 青木通、神奈川会館前、中央市場前、神奈川通4丁目 東神奈川駅前 浅間町営業所
35系統
解説
 昭和27年5月に運行開始した路線です。当初は横浜駅から中央市場を経由して東神奈川駅という路線でした。当時走っていた市電の補充と東神奈川駅からの中央市場への乗客輸送がメインだったようです。あまり長続きしなかったようで、昭和32年までには一度廃止となっていました。その後昭和33年に番号は復活し、今度は横浜駅から大桟橋(現在の26系統)という路線になりました。その後現在の26系統の運行開始に伴い再度の改変が行われ、バスは昭和36年3月に今度は横浜駅から栗田谷、三ツ沢経由の横浜駅西口行きとなりました。ちなみに、この当時は神大寺入口〜片倉町入口間の路線はなく、神大寺入口から三ツ沢墓地を経て三ツ沢中町にいたり、そこで右折し、三ツ沢西町方面から横浜駅西口に行っていました。昭和49年に現在の路線となったようです(昭和45年くらいには50系統との組み合わせ運転が行われたいたようですが、その間は後に臨時系統のみとなった三ツ沢墓地経由となっていたようです)。
36 二ツ谷町 東神奈川駅西口、六角橋、菅田町入口、長導寺前 菅田町 浅間町営業所
36系統
解説
 現在もおなじみの36系統です。昭和27年10月に運行開始しました。当初は市役所前(二ツ谷町)から菅田町という路線でした。当時の菅田町は現在の「ひまわり団地前」付近でした。昭和32年までには横浜駅西口発着のバスとなりました。中山駅までバスが走るようになったのは昭和37年9月になります。八反橋には昭和41年、神大寺入口には昭和49年に乗り入れをしていたようです。ちなみに昭和28年当時、このバスは一日12本程度の運行だったそうです。
37 横浜駅前 平沼1丁目、岡野町、浅間下、北軽井沢 三ツ沢グラウンド前 浅間町営業所
37系統
解説
 現在でも三ツ沢グランドでサッカーの試合などがあるときに運転される臨時便ですが、その誕生は意外に早く昭和27年10月から運行を開始しました。当時は横浜駅から平沼町1丁目、岡野町、浅間下、北軽井沢、三ツ沢総合グランド入口、三ツ沢グランド前という路線でした。昭和33年には横浜駅西口発が出来、現在はこちらが残っています。現在では全営業所がこの系統の方向幕を持ち、催しの際は持ち回りで運転されていますが、当時は浅間町(西)営業所の担当となっていました。ちなみに昭和28年の時点で、浅間下から北軽井沢を通るバスはこの系統だけでした。
38 鶴見駅前 鶴見警察署前、平安町1丁目、向井町4丁目、入舟橋 汐入町2丁目 鶴見営業所
38系統
解説
 鶴見駅から市場、平安町1丁目、向井町4丁目、入舟橋を経て汐入町2丁目まで行っていた路線です。昭和27年2月に鶴見駅〜旭硝子間として運行を開始しました。旭硝子というと神奈川区にある中央研究所というイメージが市営バスのお客にはあるのですが、汐入町2丁目の近くにも工場があり、開業当時はこのバス停を旭硝子といっていたようです。路線としては16系統の一部であり、昭和32年までに16系統とまとめられてその系統番号は一度なくなりました。現在の38系統は昭和34年10月に横浜駅西口〜港北小学校前ということで路線の運行を開始したものです。当初は浅間町営業所の担当でしたが、昭和37年12月に鶴見駅西口まで延長されたのを期に鶴見営業所(現在で言うと港北営業所)に移管されて現在に至っています。当初はワンマン運転だったそうですが、鶴見移管後はツーマンになるという珍しい路線でした。
39 鶴見駅前 鶴見警察署前、入江橋、子安、神奈川区役所前、横浜駅前、桜木町駅前、馬車道 長者町5丁目 鶴見営業所
39系統
解説
 昭和28年4月1日、運転を開始した路線です。生麦から横浜駅を経て桜木町駅から長者町に至る路線でした。しかし、生麦から長者町5丁目間は当時の市電のドル箱路線3系統(生麦〜横浜駅〜野毛坂〜長者町5丁目〜山元町)も走っており、あまり乗客がいなかったようです。運行本数も運行開始約2週間後の4月13日には3本減便2ヶ月後の6月10日にはさらに9本減便となりました。翌29年までには早くも廃止となり、29年9月、2代目の39系統が誕生しました。それは保土ヶ谷駅から亀甲山(桐が作下、鶴ヶ峰経由)という路線でした。今度は一日7本のローカル線でした。12系統の項でも説明していますが、保土ヶ谷駅〜鶴ヶ峰間は相鉄バスの営業エリア、それも昭和24年に初めて営業免許を取得した区間(二俣川駅〜美立橋〜保土ヶ谷駅)が含まれるのです。こういうところに当時競って営業エリアをのばしていた両者の路線が同時に走ることが出来たのが奇妙なところです。なお、相鉄と横浜市営との間では昭和36年11月に路線協定を結ぶようになり、営業エリアに関して一定の調整が行えるようになったそうです。現在の横浜駅西口(当時は横浜駅)か ら中山駅という路線が出来たのは昭和31年から32年の資料が未発見の間になります。ちなみに、最初は一日4本だったとか。
40 弘明寺 公園墓地正門前、公園墓地事務所前、公園墓地裏門、大北道、吉原 日野公園墓地 浅間町営業所
40系統
解説
 1998年1月に廃止となり、現在は空番になっているこの系統ですが、もともとは弘明寺と日野公園墓地を結ぶ彼岸・お盆時などに運転される臨時路線として昭和28年3月にスタートしました。現在の港南区総合庁舎のあたりから現在桜道と呼ばれる道路に入って行き、日野公園墓地の中をぐるりと回る路線だったようです。その後昭和36年3月のお彼岸から弘明寺から弘明寺という循環線になりました。その後昭和48年3月18日に廃止になるまでお彼岸、(うら)盆時の臨時バスとして運行されました。翌昭和49年2月に2系統を分割する形で40系統は再度運行を開始しました。今度は上大岡駅から大船駅、洋光台駅から本郷台駅という路線でスタートしました。昭和52年に港南台駅発に統一され、その後大船駅系統が廃止になり、この路線の最終形態となりました。
41 鶴見駅西口 安養寺前、東寺尾、馬場町、内路、菊名駅前、大綱小学校前、太尾橋、新羽町、大熊町、東方町 川向町 鶴見営業所
41系統
解説
 昭和28年8月に運行を開始した路線です。当時は3系統と合流する川向町までの路線でした。昭和36年にこれが中山駅前まで延長になりました。もっとも、中山駅へのアプローチは現在とは異なり、貝の坂から都橋経由で中山駅へはいるというものでした。ちなみに、これはしばらく続き昭和41年に運行を開始した88系統も当初は貝の坂、佐江戸経由となっていました(現在の東急バス綱島駅〜中山駅北口線と同じです)。昭和42年には現在の落合橋経由になった模様です。現在でも子系統のバリエーションが割に多い路線ですが、一時期は大口駅や鴨居駅にも路線が来ていたことがあるようです(大口駅〜中山駅など)。その中で異色の新羽町折返場〜新横浜駅線は昭和56年5月に港北営業所が発足したときに運行開始となっています。
42 上末吉 三角、鶴見駅西口、鶴見神社前、京浜鶴見駅前、鶴見駅前、鶴見警察署前、汐見橋 汐入町2丁目 鶴見営業所
42系統
解説
 現在は一の瀬から汐入町2丁目を結ぶ路線です。昭和28年9月に運行を開始しました。鶴見駅側は上末吉が起点であることと、時代によって鶴見駅が西口経由となったり、東口経由になったりの差があるようですが、基本的にはあまり路線に変化はありません。そして、鶴見駅からのルートは当初は現在の15系統と同じ汐見橋から本町1丁目を経由するルートとなっていました。その後現在の汐鶴橋経由のルートになりました。
43 中山駅前 貝の坂、川和、谷本小学校前、上市ヶ尾、鉄小学校前、鴨志田口 鉄町 浅間町営業所
43系統
解説
 現在も中山駅から市が尾駅方面の中心的な系統である43系統です。昭和28年12月に運行を開始しました。現在、鉄町(くろがねちょう)というバス停は市営バスにはありませんが、このバス停は上鉄鴨志田口(かみくろがねかもしだぐち)の次のバス停に当たり、現在でも東急バスと小田急バスが停車するバス停になっています。横浜上麻生道路で横浜市緑区(現在では青葉区)と川崎市麻生区の境目に当たるバス停です。桐蔭学園に乗り入れるようになったのは昭和48年です。さて、現在の43系統というと中山駅北口〜鴨志田団地・桐蔭学園と川和町〜奈良北団地の3路線からなります。それ以外にもかつては川和町〜長津田駅という路線もありました。上鉄鴨志田口より先の区間は主に先代の87系統を引き継いだ区間になっています。先代の87系統というのは田園都市線の開業と時を同じくして長津田駅〜神前橋〜鴨志田〜鉄町という路線で運転を開始したものです。その後長津田駅から市が尾駅に変更となり、昭和59年1月いっぱいで廃止となり後を引き継ぐ形で43系統がこの区間の乗り入れを開始したのです。同時に鴨志田団地にも乗り入れをはじめています。そ して鉄町行は廃止となりました。奈良北団地へは昭和61年に乗り入れをはじめています。