1-1.1系統から20系統
  (昭和28年度末:昭和29年3月31日現在の乗合自動車運轉系統表より)

系統
番号
起点 途中経由地 終点 担当
営業所
1 長者町5丁目 長者町1丁目、花園橋、日本大通、桜木町駅前、横浜駅前、青木通、反町、三ツ沢、三枚町、八反橋 六角橋 浅間町営業所
1系統
解説
 昭和20年代半ば、横浜の中心地は伊勢佐木町でした。そんなわけでこのバスは伊勢佐木町近くの長者町を起点としていたようです(他には3、5、6、7系統も長者町まで走っていました)。現在の1系統と重なる区間は松本〜三ツ沢上町間で、戦前からある三ツ沢線を踏襲した系統のようです。ちょっと面白いのが三ツ沢上町より先三枚町、八反橋、菅田町入口、神大寺を経て六角橋まで行っていたということです。ちなみに上記のバス停の内花園橋は現在の横浜スタジアム前、日本大通は県庁前にあたります。後に和田町に終点が変更され、その後現在の1系統となります。横浜駅発で反町方面から三ツ沢に行く路線でした。
2 横浜駅前 桜木町駅前、本町4丁目、尾上町、阪東橋、吉野町3丁目、弘明寺、上大岡、日野 大船駅前 浅間町営業所
2系統
解説
 現在の2系統はこの路線が変わってきたものです。こちらも戦前からある日野線を継承したものとなっています。本町4丁目から先は鎌倉街道を走り、大船までのルートは現在(港南車庫入口〜大船駅間は神奈中バス、江ノ電バスの現在のルート)とほとんど変わっていません。あえて挙げれば弘明寺から上大岡駅周辺のルートが鎌倉街道の旧道(弘明寺の場合、弘明寺を出て9系統、60系統のルートが旧道になります)を通っていたことでしょうか。
3 横浜駅前 青木通、東神奈川駅西口、六角橋、小机 川和 浅間町営業所
3系統
解説
 昭和22年8月に運行を開始した路線です。横浜駅発ということを除けば現在の3系統とほとんど変わりません。六角橋周辺と川向町周辺のルートが現在と多少違うようです(新道/旧道の差)。ちなみに川和は現在の法務局前から川和町郵便局のあたりを指すようです。このあたりに港北区役所川和派出所があり、ここの一室に市営バスの詰所があったそうです。
4 横浜駅前 桜木町駅前、本町4丁目、尾上町、浦舟町、交通局前、杉田、金沢文庫、町屋、金沢八景 六浦 浅間町営業所
4系統
解説
 古い資料を調べて現在の110系統が昔の4系統の分割した系統ということが判明しました。横浜駅を出て桜木町駅、本町4丁目、尾上町、長者町1丁目、浦舟町、中村橋、交通局前、杉田、金沢文庫を経て六浦まで行っていました。交通局前は現在の滝頭です。滝頭に交通局庁舎があったので、ここが交通局前というバス停になっていました(路面電車の停留所もそうでした)。六浦は追浜駅のちょっと手前で、横浜市と横須賀市の境目付近で横浜市内から外には出ていなかったようです。横浜駅からは走行距離20.5キロという長距離路線でした。
5 横浜駅前 浅間下、洪福寺、和田町、鶴ヶ峰、今宿、亀甲山、瀬谷入口 下鶴間 浅間町営業所
5系統
解説
 現在の5系統とは横浜駅発という点と亀甲山の先、下鶴間まで行っていたというのが違いでしょうか。ちなみに横浜駅を出たバスは平沼町1丁目、岡野町、浅間下と走っていたようです。下鶴間は亀甲山の先で、現在も神奈中バスの鶴間駅行きのバスが通るところです。大和市になります。どこでどのようにして折り返し作業をしていたのかが気になるところです。なお、この下鶴間までの延長は昭和28年5月のことです。それまでは今と同じように亀甲山折返しでした。また、廃止になったのは昭和43年6月です。
6 横浜駅前 浜松町、保土ヶ谷駅東口、元町橋、平戸 戸塚駅前 浅間町営業所
6系統
解説
 6系統が田園都市線が出きる前にどのような路線だったのかが非常に気になっていたのですが、当初の予想通り横浜駅から出る路線でした。横浜駅から戸塚駅という路線で、現在の神奈中バス横41系統と同じルートになります。戸塚駅への路線は98年の1月に53系統が廃止になったことで撤退していますが、昔から横浜市交通局は戸塚駅への路線にかなりのこだわりを持っていたようで、この系統以降もいくつかの系統が乗り入れを行っています。ちなみに6系統の移り変わりについてはまた機会を設けて解説していこうと思います。
7 横浜駅前 青木通、東神奈川駅西口、入江町、東寺尾、宮の下、尻手 川崎駅裏口 鶴見営業所
7系統
解説
 川崎駅の西口はこの当時裏口と呼ばれていたそうです。このバスも昭和25年頃は長者町まで走っていたようですが、この時点では横浜駅発着になっていました。現在の7系統とほぼ同じルートになっています。
8 磯子 八幡橋、不動下、間門、小港、谷戸橋、日本大通、桜木町駅前、横浜駅前、青木通 二ッ谷町 浅間町営業所
8系統
解説
 戦前からある磯子線を継承している路線です。現在の58系統のルートになりますが、この時点では8系統を名乗っていました。この後、磯子方面系統の他に三渓園方面への子系統が出来、それを後日分割したのが現在の8系統、58系統になるのです。この当時は横浜駅よりも先、二ツ谷町(当時の市役所前)まで走っていたようです。折返場紹介の菅田町の項で紹介していますが、この頃は現在の反町公園の所に市役所があったのです。また、磯子は現在の磯子警察署のあたりのことのようです。後日このあたりに磯子出張所が設けられることになります。現在の磯子営業所、滝頭営業所のルーツはここにあるのです。
9 磯子 交通局前、天神前、弘明寺、井土ヶ谷 保土ヶ谷駅東口 浅間町営業所
9系統
解説
 現在の9系統とほぼ同じルートになります。現在は横浜駅にも乗り入れていますが、横浜駅に乗り入れるようになったのは後年のことのようです。戦前の昭和9年にはこの路線はあったようで、1999年で運行開始から65年を迎える路線になります。ちなみに、この当時はまだ60系統や78系統はなく、交通局前(滝頭)から藤の木の間はこのバスのみの運行となっていました。
10 磯子 中原、湘南杉田駅前 浅間町営業所
10系統
解説
 こちらも9系統と同じく戦前の昭和9年から走る路線です。当時から峰というバス停がありました。途中のルートは基本的には変わっていないようです。また、杉田駅折返しという便もあったようです。この当時は車両も今よりもかなり小さかったはずですが、あの杉田駅でどのように折返しをしていたのかが気になるところです。ちなみに、湘南杉田駅となっていますが、これは杉田駅はかつて湘南電鐵線だった名残のようです。京浜急行電鉄は昭和23年に現在の体制になっているのですが、昔の名残を引きずっていたようです。ですから、旧京浜電鐵線の駅は京浜鶴見駅のように京浜をつけていたようです(こちらはかなり最近まで実際の駅として京浜XXという駅名でしたが・・・)。
11 横浜駅前 高島町、日の出町1丁目、初音町、井土ヶ谷、弘明寺、上大岡 日野 浅間町営業所
11系統
解説
 現在の11系統が出来たのはこれよりも後のことになります。昭和29年時点では横浜駅から井土ヶ谷経由の日野行きのバスがこの系統番号を名乗っていました。経路は現在横浜駅から上大岡駅方面の江ノ電バスのルートを少々変えたものになっています。江ノ電バスは前里町4丁目で左折し、吉野町駅前交差点で鎌倉街道に出ていますが、このバスは前里町交差点を直進し、現在の神奈中バス横43系統らの経路と同じ経路を南太田駅、商業高校(Y校)前、井土ヶ谷と来て、井土ヶ谷で左折して通町で鎌倉街道に出ていたようです。昭和32年に現在の11系統が運行開始となっているので、それまでには廃止になっている模様です。
12 保土ヶ谷駅東口 元町橋、桐ヶ作下、高地、鶴ヶ峰、梅の木、和田町、洪福寺、浅間下 横浜駅前 浅間町営業所
12系統
解説
 私が古い系統データを調べていて、一番驚いたのがこの系統です。保土ヶ谷駅から高地間は何を隠そう現在の相鉄バスの旭4系統(二俣川駅〜保土ヶ谷駅東口方面)のルートそのものです。高地〜鶴ヶ峰間も現在相鉄バスが走っています。現在の相鉄バスのエリアに市営バスが走っていたことになります(どちらが先かは不明ですが)。その後、現在の12系統(81系統)が運行を開始した昭和43年にはまだこの路線はあったのですが、その時には系統番号を現在の12系統に譲り渡していたようです。(旧)12系統はその後鶴ヶ峰駅〜保土ヶ谷駅東口(後に西口)間に短縮され、運行本数は1日1本ないし2本というものだったようです。最後は無系統の桐ヶ作線として走っていたようです。昭和45年に廃止となりました。
13 鶴見駅西口 三角、三ッ池道、末吉橋、上末吉 駒岡 鶴見営業所
13系統
解説
 現在と違うこととしては鶴見駅西口発ということが挙げられます。かつては三角(みかど)の次に豊岡というバス停があり、その先に鶴見駅西口というバス停がありました。鶴見駅西口の次が鶴見神社前となっていて、そして鶴見駅(東口)という停留所の順にバス停が設置されていました。綱島駅までバス路線が延びたのは昭和33年のことですが、当時は鶴見駅〜綱島駅を何と54分かけて結んでいたそうです。現在では約30分ですから、2倍近く時間がかかっています。それだけ道路事情や車両事情が悪かったということかもしれません。
14 滝坂 東福院前、総持寺前、鶴見駅西口、宮の下 下末吉 鶴見営業所
14系統
解説
 下末吉は現在新横浜駅及び梶山発のバスのみが走る区間になっていますが、当時はその下末吉が終点となっていました。どうやら上り下りとも同じルートを走っていたそうです(情報提供、鶴見区在住の柴田様)。また、鶴見駅西口付近の走行ルートも現在とは異なっており、三角〜宮の下間は諏訪坂を回っていたようです。また、滝坂という終点は現在のJRの踏切を渡って国道15号線側の滝坂バス停(生麦バス停の次)に至っていたようです。
15 鶴見駅前 鶴見警察署前、向井町4丁目、入舟橋、汐入町2丁目、潮見橋 鶴見駅前 鶴見営業所
15系統
解説
 15系統は現在に至るまでほとんど同じルートを走っています。それだけこの系統が定着している証拠でしょうか。
16 生麦 明神前、国道駅、汐入町2丁目、入舟橋 寛政 鶴見営業所
16系統
解説
 この当時は鶴見大橋を渡るルートになっていなかったようで、この系統は鶴見川まで国道15号線を走っていたようです。昭和13年には走っていたようです。鶴見川で右折し、現在の臨港鶴見川橋を渡り、下野谷町を通り、汐入町2丁目に出て、入舟橋を経て寛政まで走っていたようです。資料として欠けている昭和30年から31年の間に鶴見大橋から平安町を経由して市場の方から鶴見駅に行く路線になったようです。
17 生麦 大黒町岸壁、大黒町、国道駅、潮見橋 鶴見駅前 鶴見営業所
17系統
解説
 17系統も今とあまりスタイルは変わっていません。この路線の変化は大黒埠頭の埋め立ての進捗状況によって路線が変わっているということになります。昭和29年にこの資料が出た当時は新興駅前の次のバス停が大黒町、その次が大黒町岸壁でバスはここで折り返して鶴見駅もしくは生麦に走っていました。この頃の生麦は市電の終点であり、市電とバスとの乗り換えの重要な拠点となっていました。
18 鶴見駅前 鶴見区役所前、市場、尻手 矢向 鶴見営業所
18系統
解説
 昭和24年10月に運行を開始した路線です。当時は鶴見駅発着で、鶴見駅を出ると鶴見区役所前までは現在と同じですが、その先は国道15号線を市場まで行き、京浜急行線の鶴見市場駅をかすめて熊野神社に出て元宮、尻手、矢向へと走っていたようです。この資料の出た直後の昭和29年4月に路線は鶴見神社前、鶴見上町、金剛寺前、市場前、熊野神社前というルートになっています(これも現在のルートとは多少異なりますが)。
19 生麦 大黒町通、宝町、恵美須町 新子安 鶴見営業所
19系統
解説
 現在の19系統Bに当たる路線が当時の19系統です。この資料が出た直後の昭和29年5月に新子安終点から新子安駅前に乗り入れるようになりました。鶴見駅に行くようになったのは手元の資料の欠けている昭和30年から31年頃と思われます。
20 元町橋 大門通、天王町、洪福寺、浅間下、横浜駅前、桜木町駅前、本町4丁目、薩摩町、前田橋、大和町 豆口 浅間町営業所
20系統
解説
 20系統は現在の20系統とは多少ルートの異なる路線でした。まず、元町橋から出ていたということに驚きを感じます。元町橋は保土ヶ谷駅から権太坂方面に向かう東海道にある橋の一つです。現在、保土ヶ谷町2丁目付近から左に行く新道筋(権太坂方面に行くバスの走る道)と右に行く旧道筋(相鉄バスが走る道)があり、その2つが再び合流するのが元町橋(現在市営バスでは元町橋交番前)になっています。この当時は地形を利用したこの場所に詰所があったようで、20系統もここから保土ヶ谷駅の表口(現在の西口)をかすめ、大門通、洪福寺から浅間下、岡野町、平沼町1丁目を経由して横浜駅に立ち寄り、桜木町から本町に行っていました。現在と違う点のもう一つは日本大通(県庁前)で左折し、薩摩町へ出て、現在の簡易裁判所前の交差点を左折、加賀町警察脇を通り、ホリディイン横浜の前を通り、重慶飯店の門を右折し、前田橋に出て、そこから谷戸橋、谷戸坂をのぼり、現在のルートで走っていました。ちなみに他のページで書いていますが、戦前から終戦後まもなくの間は前田橋を左折した後次の代官橋交差点を右折し、代官坂を越えて上野町に出るルートで した。この当時まだ根岸線はなく、大和町2丁目の次は立野下というバス停でした(これが今の山手駅前)。その先バスは現在の根岸線にちょっと沿う形で坂を上り、根岸外人墓地の前を通り、現在の仲尾台公園の先の道路の分岐点が豆口という終点だったそうです。現在もこの路線が豆口線といわれているのはその名残です。路線は保土ヶ谷側が昭和37年5月に蒔田野入口(現在の平和台)まで延長され、総延長16キロという長大路線となりました。その後昭和39年に根岸線の開業に伴い、立野下が山手駅前となり、その後昭和40年1月に横浜駅から山手駅という路線になりました。現在の元町入口〜山下町〜中華街入口〜神奈川自治会館〜県庁前のルートになったのは昭和46年11月のことです。